磯山辨財天の歴史
約1,000年前、唐沢山城主である藤原秀郷公の勧進により弘法大師が相州江ノ島辨天にて護摩修行時の護摩の灰にて造られたものといわれています。 当時は一帯に七宝伽藍が林立して、隆盛を極めていました。 その後、幾度かの火災により寺宝はことごとく焼失してしまいました。現在の本殿は鎌倉時代に再建されたもので、釘を使わない「かけつくり」という昔の建築美を、今に伝える当地唯一の文化財として大切に継承されてきました。
磯山辨財天も昔は辨天池の小島に祀ってあったものを、霊泉の不変の恩恵に浴した出流川沿岸の住民で特に水車講農民等の信仰が厚く、感謝の総意により現在地に奉安したと言われています。 辨天様を山腹に安置しているのは当磯山辨財天だけです。
出流原地区磯山辨財天周辺には、水に縁が深い水神として池や河に祀り、蛇にまつわる神話が多く残されています。また、ご本尊は梵名を薩羅摩伐底と云い、インドの神話より生じた薩羅摩伐底河を神格化したもので、 羽衣風の衣装をまとう八本の手を有する天女風の辨財天で頭上に宇賀神像を拝しています。
一説には、歴史の一頁をかざる三城禁止令の発端となった時の唐沢城主が江戸の大火を発見し、早馬にて馳せ参じ一番乗りで殿への御見舞いを言上の際、この火事が眼下に見ていたという一事に依り、殿よりの不信を受け山城廃城の憂目を見たといいます。その際、領民は一丸となり城主の胸中を慰め、また殿への忠誠と不信を取り戻す為に、辨天堂を江戸城鎮護の守り神として山腹に江戸城向きに安置したものといわれ、御本殿は現在の東京都の方向を向いています。尚、御本尊は、羽衣風の衣装をまとった8本の手を有する天女風の辨財天で、頭上に宇賀神像を拝しています。
また、右側に大黒天、左側に毘沙門天の二福神、その他、印鑰童子・管帯童子・筆硯童子・金財童子・愛敬童子・生命童子・従者童子・牛馬童子・船車童子・善財童子・稲紐童子・計升童子・飯櫃童子・衣装童子・蠶養童子・酒泉童子(以上辨財十六童子と言う)が、辨財天にお仕えするかのような姿で安置され、五穀豊穣、商売繁盛など、あらゆる信仰の対象の神として今日に至ります。
辨財天の由来
音楽・弁才・福智・延寿・徐災・得勝を司る天。
妙音天・美音天・大弁才・功徳天とも称する。
元は河川を神格化したもので、七福神の一つでもある。
ご利益
磯山辨財天は、8本の手を有し、頭上に白蛇に巻かれた宇賀神像を拝し、地球上のあらゆる物を司る菩薩様が16人の童子になぞられて、それぞれのお支度で一団となり、弁財天の御指示をお待ちするかのようなお姿で御厨子に安置されており、あらゆるお願い事が可能とされ、特に五穀豊穣、家内安全、商売繁盛の神様として灼かです。 また、蛇は弁天様のお遣いで、当地域においては、長い蛇の夢を見ると幸先が良く縁起が良いと言われてまいりました。弁財天と共にやさしく皆様をお守りしている白蛇にも感謝と労りのお気持ちでご希望の所を何回かさすってあげてください。益々幸運に恵まれますことと信じます。
TEL 0283-25-0228(ホテル一乃館内)
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